３年ぶりの背広に、百合靖彦の気持ちは、あらためて引き締まった。
高校の非常勤講師にとって、スーツにネクタイという格好は、普段は必要なものではない。
しかし今日は新たに赴任した私立安治川女子高校における初出勤・初授業である。
やはり最初くらいは、こういう服装のほうが、それらしくて気分が出るというものだ。

「行ってきまーす」

慣れない手つきでネクタイを結び、鞄の中身の再チェックも済ませた靖彦は、同居する親にその旨を告げて家を出た。

まだ独身の靖彦は、少し前に流行った用語で言うと「パラサイトシングル」。
大学を出て４年目の今年も、非常勤という不安定な身分の仕事を続けていられるのは、親との同居の賜物ではある。

希望としては教員採用試験に合格し、公立学校の教諭として正採用されたいのだが、なかなか簡単ではない。
特に靖彦の教える社会科――高校では正式には地歴公民科――の競争率は、
他の教科が一時期にくらべると比較的広き門となってきた昨今でも、いまだ高いのである。

（でもなぁ……早く正採用にならないと、結婚もできないし…………）

やはりいつかは誰かと結婚して家庭を持たなければならないし、
その際には男として妻子を養う責務がある……というプレッシャーは、靖彦も感じていた。（中略）

（中略）非常勤なので、授業のある時間に合わせての出勤である。
今日は３時間目からだったので、すでにラッシュアワーは過ぎていたのだが、新快速は定刻より２分ほど遅れてやってきた。

ＪＲ西日本は私鉄との競争を意識して、「アーバンネットワーク」を合言葉に、サービス向上に躍起になっている。
スピードアップはその主戦略とされているのだが、それをめざすあまり、いささか余裕のないダイヤが組まれているため、
逆に２分程度の遅れが常態化しているのではという報道が以前あったことを、靖彦は思い出した。

ただ、その報道が「……ダイヤ改正のたびに、定刻どおり走るのが難しくなってるんです。
でも遅れると理由にかかわらず上司からは責められるし、場合によってはペナルティもある。みんな神経を磨り減らしてます。
こんなことでは、安全確保もおろそかにならないか心配です。いつか大きな事故が起こったりしなければいいのですが……」という
男性運転士のコメントを紹介して締めくくられていたことまでは、靖彦の記憶には残っていなかった。

（中略）と、携帯電話がメールの着信を知らせるメロディを
――本当は車内なのでマナーモードにしておかないといけないのが建前だが、ついつい忘れてしまう――鳴らした。

それに気づいた靖彦は、携帯を開いて画面を確認する。

｛センセー、元気？　今日は初出勤やろ？　がんばってナ｝

靖彦は文面を確認すると、とりあえず返信を入れた。

送信が完了すると、１分も置かずに、またも着信がある。

｛ゴメンゴメン｝

靖彦は苦笑する。

「だからぁ…………」

やがて新快速は大阪駅に到着し、靖彦は環状線の内回りに乗り換えた。
映画のテーマパーク“ＵＳＪ”への乗り換え駅を過ぎたその次が、安治川女子高校の最寄り駅、弁天町だった。

「はーい。というわけでこの１年間、皆さんの世界史を担当する百合です」

自己紹介をしながら、靖彦は３年１組の教室を見渡した。

「……ユリだって」

「かわいぃーっ！」

教室のあちこちでコソコソとおしゃべりしあう声をほほえましく見守りつつ、靖彦は続けた。何事もはじめが肝心である。

「じゃぁまず教科書はあるかな〜？」

そう言いながら、靖彦が手に持って示したのは、教科書ではなく、とあるコンピューターゲームの攻略本。

「センセー、それ教科書とちゃうデ！」

教室が一瞬怪訝な空気に包まれる中、すかさず誰かからツッコミが入った。

この学校では現在、世界史は２年生から３年生にかけて履修するようになっているため、
じつは靖彦がこの新学期から教えるのは、石器時代ではなく、いわゆる“大航海時代”、
すなわちコロンブスがアメリカへ行ったりするあたりからなのであった。

（とりあえず“つかみはＯＫ”かな……）

多少は興味を引かれたらしい生徒たちの様子を見ながら靖彦は思った。

「……世界史や、あと日本史も、年代を暗記してテストで点を取って、
それで終わりと思ってる人もいるかもしれませんが、出来事にはつながりってものがあります。
現代の私たちの暮らしがコロンブスからどうつながっているか……、
そういうことをわかったときに、歴史の勉強はおもしろくなるんですヨ！」

そうして靖彦は、歴史をなぜ学ぶのか……のような話をし、
それから生徒たちに自己紹介や世界史の授業への抱負をプリントに書かせた。

３時間目が終わり、４時間目の３年３組の授業も、同様に過ぎた。
１組に比べると、３組はやや落ち着きがないような雰囲気のクラスだと感じられたが、
そういうことは武庫川南高校でもよくあったので、靖彦は特に気にとめなかった。（中略）

非常勤講師である靖彦たちの職員室は、スペースの関係で、正規の教員の職員室とは別の部屋になっている。
ありていに言えば“講師控室”なのだが、それでは語感がよろしくないということで「第二職員室」と呼ばれていた。

（中略）

「百合先生〜」

そのとき靖彦を呼ぶ生徒の声がした。見ると、たしか３年１組で教卓のすぐ前の席に座っていた子である。
丸顔で、真面目そうな、かつ明るく元気そうな生徒だ。

「ごめんなさい、これ、時間内に書けなかったから……」

自己紹介＆抱負の用紙を持ってきたようだ。

「あっ、そうなん。いいよ、それじゃ今もらっとくし……」

そう言って、受け取りながら氏名欄を確認すると、［橋口鈴音］とあった。
フリガナ欄によると［鈴音］は［スズネ］と読むらしい。まぁ［レオン］という感じではない。

「あの……先生は…………」

表向きの目的は達したはずの鈴音は、なおも靖彦に何か言いたげに立っている。

「あっ、…………なんでもないですっ。それじゃ」

「………………」

靖彦が、つとめて優しく問いかけると、鈴音は心持ち頬を赤らめると、あわてたように去っていった。

「百合センセーッ」

入れ替わるように、今度は３年３組の一団が、第二職員室の入口に姿を現した。

（後略）