そんなこんなで、新学期の最初の１週間は、あわただしいうちに過ぎた。

棚畑稔璃は、靖彦に言っていたとおり、遅刻や欠席もなく毎日登校していた。
もともと人望があるタイプのキャラなだけに、実際に友人も複数、すぐにできた様子だった。

杉原千秋も、独特の存在感を徐々に出しつつも、周囲のクラスメートとは友好的に馴染んでいるようだ。

「まわりが全員女子ってのも、なかなかエエもんやワ。……俺も将来、女子校のセンセになろぅかナ」

また第二職員室にフラリとやってきては、靖彦にそんなふうにうそぶくこともあった。

靖彦は、そんな２人を含む生徒たちに対して、まずは１学期は、高校生になったばかりのこの時期、
教科書の「青年期」のところの授業――自我の目覚めや思春期独特の葛藤、対人関係の悩みの特徴や解決などの、
いわば社会・心理分野である――をとおして、日本に暮らす若者としての指針をつかんでもらおうともくろんでいた。（中略）

そうして靖彦は、教材準備に副読本の『現代社会資料集』をめくりながら、ふと手が止まった。

「青年期」の授業内容には、いわゆる“性”の問題も範疇に含まれている。

できれば生徒たちには、男女対等な立場のイイ恋愛をし、
その中で互いのコミュニケーションとしての幸福な性的関係を模索してほしい……。

妊娠・中絶やデートＤＶ、あるいは援助交際といった文字の並ぶ当該ページを概観しつつ、
しかし靖彦は、そのための授業がはたして自分にうまくできるのか、一瞬不安になった。

３月までに、いわば「バブル恋愛が崩壊」して以来、靖彦の悶々とした気分は増えこそすれ、減りはしないでいる。
そして、そうした状況下では、男としての性的衝動も、またぞろ溜まる一方だった。

さすがに担当する教え子に対して、淫らな視線をそそぐことは自戒する靖彦だったが、
女子高生を含む若い女性への欲望は、簡単には制御しがたいものとなっている。

なのにそれを一旦横に置きつつ、“性”をめぐって建前論に終わらない授業をおこなうというのは、
なかなか一筋縄ではできないことと予想された。

生徒たちとは性別が“男と女”であることもまた、話を屈折させそうなことは、容易に見当がついた。

どうもこの世の中では、靖彦の望みは、靖彦が男性であることによって、なんらかの障壁に行き当たることが、なぜか多い。
例えば由梨のように、自分もまた生徒たちと同じ女性であれば、伝えたいことがもっとスムーズに生徒に届くかもしれないのに……。

靖彦が漠然とそのように感じると、ふと千秋のことが頭をよぎった。

ただそれでもこのとき、恋愛対象が女性である靖彦は、
その点をもって、自らが男であることを放棄しようとは考えられなかった。

（中略）

４月も半ばを過ぎると、新学期の日々も、とりあえず落ち着いてくる。

その朝、ラッシュアワーの終盤にあたる時刻、自宅を出た靖彦は阪急電車の駅に向かった。

４月になって、靖彦は通勤路線として阪急とＪＲを併用している。
帰りは従来も寄り道の具合によっては阪急に乗ることがあったが、今般、往路もほぼ半々の割合となったのだ。

弁天町まで行くことを考えれば、ＪＲのほうが便利なのにはちがいないのだが、
新年度で時間割のパターンも変わったし、まぁ、ある種の気分の問題であった。
阪急のほうがカワイイ女の子が多いような気がしたから……というヨコシマな理由もないではなかった。

その日の阪急は、通常にくらべると妙に混雑していた。
ＪＲが信号機のトラブルでダイヤを乱し、それを避けた客が阪急に流れているというのは、靖彦は乗車後に知った。

次の急行停車駅で、車内はほとんど身動きできない状況にまでなった。
乗客たちは、互いの身体の不快な密着を強いられた。

（後略）