碧集が安治川女子高校の新入生となったのは、
大阪の街が「花の万博」なるイベントで浮かれた雰囲気の中にあった年の春のことであった。

第１志望にしていた県立高校の入試で運悪く不合格となってしまった碧集は、
定員割れで２次募集をしていた安治川女子高校に、なんとかもぐり込んだのだったが、やはり心は傷ついていた。

安治川女子になんて来るつもりはなかったのに――。（中略）

そんな碧集の気持ちが、初めて少し上を向いたのが、入学から４日目、はじめての美術の授業のときだった。

「ハルミノドカです。変な名前でしょ？　ヨロシクね」

［暖芳］と書いて「のどか」と読んだり、「はるみ」なんて下の名前みたいな苗字だし、
たしかに変わった名前だとは、碧集を含むほとんどの生徒が、内心思った。

「『芸術は爆発だ』って岡本太郎も言ってたけど、まぁバクハツとまでは行かなくても、
美術の時間では“こうあるべき”って形にとらわれずに、ありのままの自分を表現したらイイからね。
つまり、あなたたちひとりひとりが、世界でひとつだけの存在そのものなんだから、
それを作品に表すようにしれくれたらいいのヨ」

ハキハキと語る暖芳の様子と、その言葉に、碧集はちょっとだけ気分が軽くなるように感じた。

（中略）

こうして暖芳に見守られて、碧集は安治川女子高校での３年間を楽しく充実して過ごすことができたのであった。

（中略）大学での生活も、つつがなく経過し、４年生のとき
教育実習で母校を訪れてきた碧集を見て、暖芳は「まぁアオイちゃん、立派になって……」と感嘆してくれた。

そしてその翌春、碧集は家庭科の非常勤講師として任用され、安治川女子高校に再び通うこととなるのであった。

（中略）

そんな４月の桜の花の咲く季節（中略）の放課後、
翌日の授業準備もだいたい終わったところに、暖芳がやってきた。

「ねぇ、アオイちゃん、天保山公園の夜桜が、そろそろ見納めらしいから、今からいっしょに行かない？」

（中略）大阪港駅を降りてひとしきり歩くと、
水族館の『海遊館』や商業施設の『マーケットプレイス』などを含む天保山界隈である。

碧集はふと、すれちがったひとりの通行人が若干の違和感を醸し出していることが気になった。

「ねぇ、のどか先生、今の人って、ちょっと変じゃ……。
なんか女装した男の人みたい。……アブナイですね」

碧集が、軽く振り返りながら呟くと、暖芳は一瞬の間を置いて険しい表情になった。

「…………ダメよ、アオイちゃん、そんなふうに言っちゃ。
……人それぞれ、いろんな思いがあるんだから」

「あっ、ハイ、ごめんなさい……」

暖芳にそう返されて、碧集は素直に納得した。（中略）

それから二人は、他の花見客に混じって公園内をそぞろ歩いた。
春の夜風がここちよかった。（中略）

いつしか二人は手をつないで歩いていた。
さっき写真を撮ってもらうとき、並んだ具合で、手を取り合った後、そのままになったようだ。

（のどか先生の手……なんだか気持ちいいな）

碧集は半ばぼんやりと、そんなふうに思っていた。

「アオイちゃん…………」

しばらくして、ふと暖芳がせつなげな声を漏らした。（中略）

「でもね、アオイちゃん。…………ごめんね、ごめんね。
私、本当はあなたに……あ、謝らなくちゃいけないことが…………」

碧集は、暖芳の言っている意味がよくつかめず、驚くしかなかった。

「私、昔あなたが高校生だった当時………………」

（中略）

４月が訪れ、今年もまた新年度がはじまった。

しかし暖芳がいなくなった安治川女子高校で、碧集はいまひとつ調子が上がらないでいた。

何かが物足りない。どこか淋しい気持ちが治まらない。
のどか先生に会いたい。声が聞きたい……。

ただ、新しい住所などは聞きそびれていたし、
携帯電話の番号も変わったようで、碧集のほうからすぐに連絡を取ることができなくなっていた。

暖芳への思慕の念が募るにつれ、碧集の胸はもやもやした。
気もそぞろのうちに、仕事上の軽いミスも重ねると、碧集はさすがにどうしたものか悩み、由梨に相談した。

「それは…………」

由梨はやや逡巡しながらも、意を決したように碧集に宣告した。

「…………失恋ね」

（後略）