２月になると「この冬いちばんの寒波」が襲来するのが、京都府南部の標準的な気候である。
（中略）一方この時期になると、日差しには春の兆候が感じられるようになる。
午後の授業などは、教室の窓際の席だと、晴れた日にはポカポカと気持ちよく、つい眠くなってしまいがちである。（中略）

その日は理素奈が、真理子たちと平安堂へ買い物に寄るということで先に学校を出たため、
満咲と歩美は二人で駅までの道を歩くことになった。
夕刻の風は冷たかったが、二人の間には温かい波動がたゆたっていた。（中略）

「もうすぐバレンタインデーね」

坂道の下の街並の向こうに浮かぶ夕日に照らされながら、歩美がふと言った。

「そ、そうだね……」（中略）

「バレンタインに、誰かにチョコレートあげるのって、今度がはじめてなんだ……」

「そ、そうなんだよね」

（中略）満咲は昼休みの歩とのやりとりを思い返した。（中略）

驚きと戸惑いがあらためて入り交じったような歩の口調に、
満咲は自戒を込めて苦笑すると、あっさりと答えた。

「まぁ、あげたい相手にはあげて、もらえるところからはもらっとけば？」（中略）

「でもやっぱり……」

歩美が言葉を続けるのを聞いて、満咲は意識をそちらに戻すと、はからずも身構えた。

一瞬、身体を電流が貫いたように満咲は感じた。
歩美が自分に対してバレンタインの贈り物を考えているのだということが明らかに読み取れた。

「ホ…………ホントだね」（中略）

夕日の坂道にかけがえのない時間が流れる。そして満咲は気づいた。

（そうか、ボクも今度がはじめてなんだ。……バレンタインデーの“本命チョコ”は）

翌週になると、教室の雰囲気も、いよいよバレンタインデーまでのカウントダウン体制になる。
本命告白を企てている者もひとりならずいるのか、女子の間にはいつになくピリピリした気配も漂わぬではない。
一方、男子の側からも、どこかそわそわした様子が伝わってきた。
贈る側と贈られる側として、このようにクラスが“女子”か“男子”かで二分されてしまう状況を、
満咲は見るともなく眺めながら、どこか釈然としない思いがした。

（なんだかなぁ……）

と、そのとき、理素奈が歩に話しかける声が、傍らから聞こえてきた。

「ねぇねぇ、歩クン……」

「ん？　どうしたの、リソナ」

「あのね、バレンタインデーは、いっしょにチョコレート作ろうよ」（中略）

その理素奈のうきうきした口ぶりが、満咲の癇にさわった。

不確定な将来の事項に対する、自分に都合のいい断定を前提に物事を進めるなんて、
まるでプロ野球の某金満球団のオーナーが、自チームがセリーグで優勝することを当然として疑わないのと同じではないか。
（中略）そう思う満咲だが、じつのところは自分もまた、歩美を独占したいのに他ならなかった。

「私、手作り用のチョコ、用意していくね。他にもありあわせのチョコがあったら、いっしょに混ぜちゃえるよ」

「それじゃぁ…………」

そこで満咲は拳で机を叩きながら、椅子をガタンと言わせて立ち上がる。

「ミサキ、どうしたの、どこ行くの？」

怪訝そうな顔の理素奈に背を向けると、歩の呼びかけを無視して、満咲は教室を出た。

（やっぱり……やっぱり、リソナとアユよりも……、ボクとアユミが、いっしょにいたい！）

険しい表情で廊下を行く満咲は、詩諳が声をかけてくれたことにも気づかなかった。

（中略）

「ねぇミサちゃん、今日は私…………」

「わかった。それじゃ……六地蔵にしよっか」（中略）

駅前で落ち合った二人は、適宜３つのショッピングセンターを回り、
バレンタインコーナーをはじめ、いろいろなお店で買い物を楽しんだ。（中略）

帰り際、先に小さな包みを差し出したのは歩美のほうだった。

「はい、ミサちゃん。これ、私からの……」

それは、この日、バレンタインコーナーで、歩美がひときわ念を入れて選んでいたものであった。

「少し早いけど、今日でないと“私”から渡せないかもしれないし」

「あ、ありがとう……。それじゃボクも」

礼を言って受け取りつつ、満咲も同様に、もっとも入念に吟味して買った包みを差し出す。

「ありがとう、ミサちゃん……」

少しはにかんだような微笑みを浮かべた歩美は、うれしそうにそれを手にする。
その様子を見て満咲は、胸が熱くなった。

（中略）

二人は仲よく並んで座って、いっしょに作ったチョコレートを味わうことにした。
せっかく形にした手作りチョコをまた割るのはもったいない気もしたが、
理素奈はそれが結婚式のケーキカットのようにも思えて、妙にわくわくする気分になるのだった。

「ねぇリソナ……」

チョコレートも大半を食べ終えつつあるころ、歩がポツリと言った。

「こんなバレンタインデーも、いいもんだね」

「……今まではどんなだったの？」（中略）

「………………」

答えながら、歩はどこか遠い目になる。
それに気づいた理素奈は、歩の数奇な人生に思いを馳せると、そこに自分の過去を重ねた。

「私はネ……、バレンタインデー、嫌いだったんだ」

今度は歩がそう尋ね、理素奈がしばし宙を見つめた。

「だって……、私、いじめられてたから…………」

「？………………」

理素奈が中学まではいじめられっ子だったことは、すでに知っているが、
歩は、一瞬いじめとバレンタインデーを直接的に関連づけられずに、ひそかにとまどった。
が、ほどなく何週間か前に報道されていたあるニュースを思い出した。

（中略）おそらくはかつて理素奈に対しても、同じようなことが、特にバレンタインデーの機会にあったのだろう。

「リソナ……」

急激に、愛しい感情が込み上げてきた。歩は思わず理素奈を抱き寄せた。

「あ、歩クン……」

理素奈が自殺しないでよかった。歩はあらためて思った。
そして、今ここで自分がこうして理素奈といっしょにいられること、それがとても尊いことであるとも……。

理素奈もまた、歩の腕のぬくもりを感じながら、嬉しさをかみしめた。
この世に生まれ、生きて歩とめぐり会えたことは、なんとすばらしいのだろう……。

「歩クン……」

「リソナ……」

理素奈も、歩を抱きしめ返した。

（中略）

月曜日の朝、詩諳はどこか寝覚めが悪かった。
胸の奥がなんだかもやもやする。チョコレートの食べすぎ……というわけではない。
胃や腸などの臓器の物理的な不快感とはちがう。ありていに言えば、何かよくない予感がするのだった。（中略）

（なんだかイヤな感じね……）

学校に着いても、それは治まることがなかった。

教室を見渡したが、とりあえず満咲は理素奈や歩美となごやかに談笑している。

（今日は、来ているのは歩美ちゃんなのか……）

何かが起こるとすれば、やはりあのあたりなのだろうなと思いつつ、
そんなことにならないことを、詩諳は願った。

「ねぇ祥一、今日私なんだかよくない気分がするの。何かあったらお願いね
（中略）真理ちゃん、太陽クン。どうも今日は胸騒ぎがするのよ。悪いけど、気をつけておいて」

これが杞憂であればいい……。
そんな詩諳の祈りに応えてか、１時間目、２時間目は何事もなく過ぎ、３時間目も無事に終わった。

“空が落ちて”きたのは、誰もが油断した、そんな休み時間だった。

詩諳にそんな声が聞こえてきたとき、どこかから戻ってきた満咲は、
追いすがる歩美を振り払いながら、教室に残っていた理素奈のもとへにじり寄るところだった。
見れば、普段の満咲からは想像もできないような鬼の形相だった。

満咲は、腹の底から怨詛の念を絞り出すような声を響かせると、
誰が止める間もなく、理素奈の胸ぐらをつかみあげた。

（後略）