学校帰りのひとみは、通学経路の途中で電車を降り、駅からほど近い雑居ビルの前で足を止めた。

もう何度、このビルへやって来ただろうか。

ここへ来るたびに、ひとみは軽い自己嫌悪を覚える。

だが、やめることもできなかった。

どうせ過去をやり直すことなんてできない…。

ひとみは素早くビルの中に入った。

エレベーターの前には、珍しく３人もの先客がおり、それを見て、ひとみは一瞬ひるむ。

ひとりは二十歳過ぎのダサいセンスの大学生風。もうひとりは四十代ぐらいのサラリーマン風の男性。残るひとりは年齢不詳のオバサンだった。

後者の２人は、３階にあるサラ金の客だろうか。

さらに後から、小柄でひげの長い老人が加わった。

ひとみの白くまぶしいセーラー服とは、およそ不釣り合いな、薄汚れたエレベーターは、合計５人を乗せて、そのドアを閉じた。

ひとみの知る限り、こんなに大勢の人間が、このビルのエレベーターに乗り合わせるのは、かつてないことであった。

ひとみは少しバツが悪く、他の人と顔を合わせないように、目のやり場を探した。

だが他の人も同じ思いなのか、落ち着かない様子だ。

ひげの老人だけが、ニコニコとした笑みをたたえて、ゆったりかまえている。

…ガクン。

突然、軽い振動がエレベーターを揺らした。と、思うやいなや、それっきりエレベーターはウンともスンとも言わず、動いている気配がなくなってしまった。

エレベーター内を、３秒半ほどの沈黙が包んだ。

「…どうしたのかしら？」

年齢不詳のオバサンが、まず口を開いた。

「止まっ…ちゃいましたね」

続いてサラリーマン風の男性。

「故障かなぁ…」

さらに大学生風の青年は、そうつぶやくと、コントロールパネルのボタンを、いくつか無作為に押してみるという行動に出た。

青年はもしかしたら工学系の学生なのかもしれない。人間関係は不得手そうだったが、機械に対する態度は積極的なものに見えた。しかしこの状況では工具もなく、パネル内部をいじれるわけでもなかったので、ボタンを押してみる以上のことは、もとよりできるはずはなかった。

ひとみはこれらを見ながら、不安を広げていた。

「どうしよう…、こんなエレベーターに閉じ込められるなんて…」

そう思い、ぎゅっと唇をかみしめる。

大学生は、さっきからひとみのほうをチラチラと見ている。

さらにひとみにはもうひとつ、困ったことがあった。じつはオシッコがしたいのだ。

駅ですでにトイレに行ってもよいだけの尿意はあった。しかしある事情で、ガマンしたままここまで来たのだ。

もしも、何時間もこのまま閉じ込められたりしたら…。

もし、我慢できなくなって、おもらししたりしたら…。

ひとみは、半ば暗澹たる気分になった。

ためしに、ドアをドンドンとたたいてみた。しかし当然、それで事態は何ら改善されなかった。

「お嬢ちゃん、ダメだよ。そんなことをしても…」

サラリーマンはひとみをたしなめるように言うと、携帯電話を取り出した。が、なぜか圏外になっているのを画面で知ると、短くうなって沈黙した。どうしたことか、他の誰の携帯電話も、圏外になっている。

「非常ボタンは押したの？」

オバサンが、思いついたように言葉を発した。

コントロールパネルには、『非常の際押してください。外部に連絡できます』というボタンが付いていた。

「そうだよ！」

大学生が、すかさずそれを押した。

カチッ。

…が、ボタンを押す音がしただけで、さしたる反応はなかった。

数回やり直しても、結果は同じ。

「それも壊れているのか？」

「…………さあ」

サラリーマンと大学生が、そう言葉を交わすと、もはやエレベーター内のだれもが、なすすべをなくしてしまった。

狭い室内で、全員が手持ちぶさたに立ちつくす。

それぞれが気まずさを抱えているようだ。

「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」

その時、長いひげの老人が、初めて言葉を発した。

「いゃぁ、皆の衆、大変なことになったのぅ」

ずいぶんと、のんきな、場違いな雰囲気のする発言だ。

「…………………」

「…………………」

「…………………」

「…………………」

他の全員が、リアクションにつまった。

老人は、あいかわらずにこやかな表情のままだ。

「今、皆の衆は、困ったことになった、信じられない、夢なら覚めてくれ、そういうふうに思っとるんじゃないかのぅ？、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」

たしかにその通りには違いない。

ひとみは思った。

でもこの老人は、どうしてそんなことを言うのだろう…。

「それがどうしたのよ」

オバサンがまず、そういう感想を口にした。

「何なんだよ、アンタ」

続いてサラリーマン。

「ワシはな…」

老人は続けた。

「…"夢仙人"じゃよ」

全員がまた、呆気にとられる。

「このエレベーターにの、ワシを必要とする"気"の流れが、集まっとったからの、それでこうしてやってきてやったんじゃよ」

「じーさん、頭オカシイんじゃないの？」

大学生が、そう冷たく断じた。

彼はどうやら合理主義者のようだ。非科学的なものは信じないのだろう。

だが老人はかまわず続きを話す。

「ワシはな、"夢"をコントロールする力があるんじゃ」

"仙人"のくせに「コントロール」なんて外来語を使うところが、なんだかオモシロイとひとみは思った。

「誰しも…、この今日が、今日の出来事が夢であってくれたなら、…と思ったことがあるじゃろ」

ある…。

ひとみには思い当たることがあった。

それまでうっとうしそうに話を聞いていた、オバサンとサラリーマンも、老人のその問いかけには、思わずハッとした様子を見せた。

「そこでじゃ、ワシの力で、それを本当に夢にしてやろう。その『夢であってほしい』と思った出来事のあった日から、今日のこの瞬間までが、夢だったことになるんじゃ。どうじゃ？」

「ばかばかしい…」

大学生があきれたようにつぶやいた。

だが他の２人の大人は、気持ちに引かれるものがあったようだ。

「…って、言うことは、その日に目が覚めるところからやり直せるのね？」

「つまり、前の晩に寝てからこの瞬間までが、夢だったことになるんだな？」

「そうじゃ。そしてその日以降は、自由にやり直してよいのじゃよ」

そう聞いて、オバサンとサラリーマンは、顔を見合わせた。

「！」

「じゃあ…」

そしてまずサラリーマンが、堰をきったように話し始めた。

サラリーマンの話はこうだ。

彼は１年前、会社をリストラでクビになった。当座の生活費を確保するため、その１週間ほど前に虎の子をはたいて買った大手証券会社の株式を、売りに行こうと思っていると、その朝のニュースでその証券会社が多額の負債を抱えて自主廃業を決めた旨が報道された。妻にはさんざん罵られ、子供にもバカにされ、やりきれなくなってのめりこんだパチンコと競馬で散財。そうしてサラ金に手を出したあげく、現在は借金で借金を返す生活だという。

「今日だって、このビルにあるサラ金にカネを借りに来たんだ…。もういやなんだよ、こんな生活、やり直せるんなら、やり直させてくれよ！」

サラリーマン、…いや、じつは「元サラリーマン」だったサラリーマン風の男は、そう結んだ。

「なるほどのぅ。苦労しとるのぅ、ふぉっ、ふぉっ」

「そうなんだ…。これが全部、夢ですむんだったら、どんなに……」

「…くだらねーぇ！」

大学生が、聞くのも不快だとばかりに、チャチャを入れてきた。

だが老人はそれにはかまわず、話を進めた。

「さて、ではそちらのご婦人の望みはいかようかの？」

「…私は…」

オバサンも思い詰めたように語り始めた。

なんでもオバサンには十数年前、結婚を約束した恋人がいたらしい。２人はある夜、結ばれ、幸せは頂点に達した。そしてそんな一夜が明けたベッドの上、オバサン、…当時はまだ若かったかもしれないが…、の隣にいるはずの恋人は、もはや影も形もなかった。結婚後にいっしょに始める事業の資金として渡した七百万円とともに、彼は二度と戻ってこなかった…。

「…今でも時々思うのよ、彼は結婚詐欺なんかじゃない、これは夢なんだって…。本当はまだ、あの夜のベッドで、彼の隣で夢を見ているんだって……」

最後にはオバサンは、涙目になっていた。

「ケッ！」

それでも大学生は、容赦のない反応を示す。

ひとみは、大学生のその態度が、少しあざとすぎるように思えてイヤだった。

もっともひとみもまた、今の２人の話はありきたりの域を出ているようには思えず、うざったく感じていたのは確かだ。

大人の悩みなんて、みんなくだらない…。私なんて……。

「さて、若いの。おまえさんの話も聞こうかの…」

老人は、大学生にも話を振った。

「いらねーよ！」

大学生は一蹴する。

「おや、そうかね」

老人は別に動じた様子はない。

「…では、最後に、お嬢ちゃん。あんたの話を聞くとするか」

とうとう老人は、ひとみに水を向けてきた。

「私は…」

どうしよう。

何を話そう。

ひとみには、夢であってほしいと思ったことが、数え切れないくらいある。

高校生になって間もないころ、通学の満員電車の中で痴漢に遭い、制服をべったりと汚されて、せっかくの真新しいスカートを買い替える羽目になったこと。

友達とディスコに行ったことが学校に知れ、３日間の停学になって、両親とモメたこと。

ひとみが下級生からカツアゲをしたという噂が立ち、生活指導室に連行されて、担当の教師たちからかわるがわる取り調べを受けたときは、本当に泣きそうになった。

だが、それらのおおもとはそもそも………。

一瞬うつむいて、考えをめぐらせたひとみは、顔を上げると、こう口を開いた。

「合格発表の…、高校入試のときの、合格発表の日まで、戻れ…ますか？」

…あれは、春の雨がシトシトと降り続く日だった。いよいよ第一志望校の発表の日の朝ということで、ひとみは期待と不安の入り交じった気持ちで目を覚ました。

落ち着かないまま朝食をとり、着替え、傘をさして家を出る。

電車に乗り、３日前、入試に赴いたのと同じルートをたどれば、在校生の姿もちらほら見える。

「この人たちの後輩になるんだな…」

漠然とそう思うと、うきうきした気分がひとりでにわいてくる。

やがて学校の前まで来ると、すでに校門前は大勢の人でごった返していた。

在校生が登校していたのは、ひとみたちに部活の勧誘をするためだったことも判明した。

すでに様々なクラブの扮装をした上級生たちが、待ち構えていたようにビラを配っている。

ひとみもうやむやのうちに、ユニフォーム姿の背の高い女の子と、茶髪で長髪のヘビメタ系の男の子から、ビラを渡されていた。

見れば、それぞれバレーボール部と軽音楽部だった。

「バレーボール部かぁ…」

それはひとみが中学の３年間、がんばってきたクラブでもあった。小柄だが敏捷なひとみは、チームにはなくてはならない存在だったものだ。

一方、小さいころからエレクトーンを習い、またカラオケではキレイな声だと友達からほめられたりしているひとみにとって、軽音楽部もまた魅力的だった。

「どうしよっかなー…」

新しく始まる高校生活への希望が、胸の中でどんどんふくらんでいく。

ひとみは弾む胸をおさえながら、合格発表の掲示板を見上げた。

いくつもの受験番号が並んでいる。

筆記試験も、面接も、自信があった。ひとみは自分の番号をさがした。

番号は順に並んでいるので、だいたい自分がどのあたりをさがせばいいかはすぐにわかる。ひとみは自分より少し手前の番号を見つけると、そこからひとつずつたどっていった。

「？」

一瞬ひとみは、自分の目を疑った。

自分の番号が抜けている！

「！」

自分の番号だけとんでいるのだ。

「そんな……」

うそ…、どうして…。

さっきまでのときめきが、音をたてて崩れ、かわって赤黒い不安な気持ちが心の中で嵐のように渦を巻き始めた。

ついさっきもらったばかりの部活勧誘ビラが、握りしめた手の中で、空しく濡れていく。

ひとみはそのまま、茫然と立ちつくした。

絶望の重い固まりが、ひとみの当時十五歳の身体を押しつぶした。

そのあとは、どこをどう通って家に帰ったのか、ひとみはまったく覚えていない。

ただただ雨が降っていたことだけが、焼き付いたように印象に残っている。

そして家に帰り着くやいなや、こらえていた涙があふれ出し、そのまま何時間も泣き続けたのだった。

翌朝も目覚めると、同じように雨が降っていた。

もしかしてこれが本当の合格発表の朝で、昨日の出来事はすべて夢だったのではないだろうか…。

何度も、何度も、そう思った。しかし、日付が戻ることは、むろん決してなかった。

そのあとのひとみの人生は、まさに悲惨の連続だった。

すべりどめに合格していた女子高に通うことになったものの、当初ひとみは、その学校で一生懸命勉強して、大学は必ず望み通り合格しようと、意欲に燃えていた。

入学式の翌日、いきなり抜き打ちの持ち物検査があった。

雑誌。ヘッドホンステレオ。化粧品類。クラスメートの様々な持ち物が、担任教師によって没収された。

中には、いくらなんでもそれはマズイぞ…という物もないではなかった。ひとみのすぐ前の席の、どこの暴走族だ？…という感じの、「いかにも」な子は、特殊警棒やメリケンサックを取り上げられ、それでも悪びれずに、笑って舌を出していたりした。

そして、ひとみが没収されたのは、携帯用ゲーム機だった。大学受験を目指して、通学電車の中でも勉強できるようにと、両親がくれた"入学祝い"のお小遣いをはたいて買ったものだ。

いくらひとみが、それで授業中遊んだりしない、それは英単語や歴史の年代などを勉強するのに使うのだと、実際にソフトのカセットを示して訴えても、担任は聞く耳を持たなかった。

こんなことなら本当に遊ぶための据え置き型のゲーム機の方を買っておけばよかったと後悔してもすでに遅く、ひとみはくやし涙を流した。

この一件で、すっかりやる気を失くしたひとみは、部活もせず、放課後は悪友に誘われるままに街へ繰り出し、派手に遊び回るようになった。

当然勉強はテキトーで、すでに成績は大学受験にとうてい手の届かないところまで下がって久しい。

そして、遊び回るための、あるいはそのための洋服やアクセサリーなどを買うためにも、お小遣いはいくらあっても足りない。

そんなひとみが、ブルセラショップに下着を売りに行くようになるのは、時間の問題だった。

今日だってひとみは、このビルの５階にあるその店へ行くところだったのだ。

はじめは使い古しのパンツや、中学時代の制服・体操服などを売るだけだったが、やがて顔写真を付ければ同じものを２倍の値段で買い取ると言われ、その場で脱いだパンツに、そのときの写真をセットして"商品化"するようになった。

ひとみは店の客には人気があるようで、ひとみが提供した下着は、次に行ったときには必ず売り切れていた。

そのうちひとみは、ビデオにも出ないかと誘われた。

ブルセラビデオは一般のアダルトビデオと違い、制服姿で街を歩いたり、少しパンチラを見せたり、せいぜいオナニーしているところを撮るだけだという知識のあったひとみは、その高額な出演料につられて、二つ返事でＯＫした。

最近のブルセラビデオは、もっとハードな内容になってきていることを知らなかったのだ。

撮影の現場になれば、もはや後には引けない。

ひとみは要求されるままに処女を奪われ、しかもその場面をビデオを通して見知らぬ男たちに公開することになってしまった。

おまけに最後は、思いっ切り膣内に射精されたのだ。今は「中出し」ものが流行っているのだと、ひとみは後で知った。

数日間、ひとみは身体の内側がドロドロしているような気がして気持ちが悪かった。吐き気がこみ上げ、食べてもすぐに戻してしまった。

お風呂で必要以上に、何度も身体を洗ったりもしたが、気は休まらなかった。

妊娠の不安が、胸に暗雲のように広がる。

だが妊娠の可能性が消えたころには、ひとみは再びブルセラショップに通うようになっていた。今のひとみにとって、手っ取り早く収入を得る手段として、これ以上のものはなかった。

店に行けば、ひとみが出演したビデオはダビングされ、今でも棚に並び続けている。

最近では店の商品はさらに多様化し、女子高生の唾液や尿までが、冷蔵庫に入れて売られている。

ひとみが今日、オシッコを我慢したままこのエレベーターに乗ったのも、じつは店に商品として提供するためだった。これも結構な値段になるのだ。

こうしてひとみは、自分が泥沼にはまっていくのを感じつつも、そんな生活に安住する毎日を続けている。

でも心のどこかでは、このまんまじゃいけないと思っているのも確かだった。

もしかしたら、本当の自分は、あの第一志望の高校にちゃんと合格していて、毎日楽しく充実して過ごしているのではないか。

今の自分は、その本当の自分が見ている悪夢の中の自分なのではないか。

ときおりそんな思いが頭をかすめる。

もしかしたら、ビデオにこそ出たものの、直接的な"援助交際"は今までせずにいたのは、そんな本当の自分の、かすかに残った良心だったのだろうか。

そして、今は、そんな『本当の自分』に戻れる、最後のチャンスかもしれなかった。

「…もし本当にやり直せるなら、こんなのじゃない、もっと…、本当にやりたかった高校生活が、あったはずだから…。だから、あの合格発表の日から……」

話しながら、ひとみも、さっきのオバサンと同様、最後は胸がいっぱいで、涙があふれそうになった…。

本当に…、私は今まで、何をしてきたのだろう……。

「なるほどのぅ、ふぉっ、ふぉっ」

老人は、相変わらずにこやかなまま、淡々と応対した。

「じゃ、そんなわけだから、ひとつ、はやいところ頼むよ」

「そうよ、そうそう。はやいとこ、お願いしたいわ」

元サラリーマンとオバサンが、ひとみの話の間にしびれをきらしたのか、待ちきれない様子で口を突っ込んできた。

「…………………」

しかしここで老人は、一瞬沈黙した。

「どうしたんですか？」

ひとみは何か胸騒ぎがした。

「ただのぅ…」

すると老人は、こう告げた。

「ワシの力も、無限ではないからのぅ…。じつは今回は１人だけしか、願いがかなえられんのじゃよ」

「えっ！」

「どういうことよっ？」

「そんなバカなっ！」

老人の言葉に、３人は口々に驚きの声を上げた。

そしてたがいに顔を見合わせると、まず元サラリーマンが、老人に向き直って叫んだ。

「俺だ！、俺の願いをかなえてくれ。俺にはこいつらと違って妻子がっ！」

だがオバサンも負けてはいない。元サラリーマンをむんずとつかんで言った。

「なに言ってんのよ、アンタは自分でギャンブルに溺れたんでしょうが！」

「そうよっ。それでやり直したいなんて勝手よ！」

ひとみも遅れてなるかと、切り込んだ。

「待ちなさい！アンタはまだまだ若いんだから、今からでもいくらでもやり直せるでしょうがっ！」

「なによ。オバサンこそ、いつまでもウジウジしてっ！、私みたいに男に頼らないで生きてみたらどうなのっ？」

「パンツ売ってビデオに出るのが、男に頼らない生き方だって言うの？」

「なんですって！」

「…というわけだ。こんな低次元な女どもより、私の願いを聞く方がよっぽど有益だと思いませんか？」

「なにーっ！」

３人の応酬は激しく続いた。

このままではせっかくのチャンスが…。ひとみはせっぱつまって、老人にとりすがった。

「お願いよ、おじいさん。どうか私の願いをかなえて。私、本当に、もう一度、もう一度やり直したいの！」

訴えながら、ひとみの目から涙がぽろぽろとこぼれる。

その様子には、さすがの元サラリーマンとオバサンもひるんだ。

老人も言った。

「そうじゃのぅ、ここはやはり前途あるお嬢ちゃんを優先するかのぅ…」

その時だった。

それまで無関心を決め込んでいた大学生が動いた。

「待て…」

新たな展開に、一同が驚く。

「俺だ…、俺がやり直すんだ」

大学生はひとみを押しのけながら、そう言うと、老人の正面に向き直った。

「中学のとき、片思いだったクラスメートの女の子にバカにされたんだ…。それ以来、俺は女の子とうまく付き合えない…」

「そ、そんなの全部自分のせいでしょ！」

ひとみが大学生を阻止しようと叫んだ。

大学生は別の角度から反撃した。

「…俺、お前の出てるビデオ、持ってるぜ。学校にでもバラしてやろうか？」

「！」

「お前のパンツでオナニーしたことだってあるゾ。いつもずいぶんと濃いシミ付いてるよなぁ」

激しい感情がこみ上げてきた。

「卑怯者！、それでも男なの」

「男ってのは、卑怯なものサ、わかってるだろ？」

ひとみは怒りと悔しさ、それに恥ずかしさで身体がカーッと熱くなった。

「ゥキーッ！」

我を忘れたひとみは、渾身の力を込めて、大学生につかみかかった。

だが所詮は男の敵ではない。もみ合いの末、ひとみは逆につき飛ばされてしまった。

狭いエレベーターの中のことだ。ひとみはエレベーターの壁に全身をぶつけた。頭も強く打ったようだ。

一瞬、気が遠くなった。

同時にエレベーターが、少し揺れたような気がした。

我慢していたオシッコが、少しこぼれてパンツが濡れる。

それに気付いて、ひとみはあわてて気を取り直した。

エレベーターはいつのまにか３階に停止し、ドアが開いていた。

ドアの外には、作業服を着た２人組の男が立っている。ひとりは中年、もうひとりは若くて、いかにもまだ見習いという感じだった。

「申し訳ございません。定期点検を実施するところだったのですが、コイツが手順を誤りまして…」

中年が、若いほうにも頭を下げさせながら、しきりに謝った。

「どうか何卒、ご容赦のほどを…。本当にすみませんでした」

結局、無事３階に着いたため、元サラリーマンとオバサンは、サラ金をめざして降りていった。

老人の姿は、どこにもなかった。

ひとみもあわててエレベーターから降りた。

エレベーターは、大学生だけを乗せ、ブルセラショップのある５階まで行くと、無人で３階へ戻ってきた。

ひとみはそれに乗ると、１階へ下り、ビルを出た。

駅はもう会社帰りの人でいっぱいの時刻だった。

９月の日暮れは、少しずつ早くなってきている。

トイレでたまっていたオシッコをすませると、なぜか気分まですっきりしたように感じた。

中学生らしい女の子の一団が、ひとみの前を通り過ぎる。駅前の進学塾へ行く途中なのだろうか。

それを、なつかしいように見送ると、ひとみは、なんだか自分がとても愛しく思えてきた。

…駅構内の本屋に寄った後、ひとみは家路の電車に乗り込んだ。