その日、生徒会の用事で登校した松田綾乃は、予想より早く、午後３時ごろに学校を出ることができた。
印刷機がトラブルもなく回ってくれたおかげである。

校門脇の桜の木は、かれこれ満開になろうとしていた。
明後日から新学期。
今年もあの花びらの下を、大勢の新入生が、胸を膨らませてやってくるのだろう。……２年前の綾乃のように。

思えば２年前、第一志望の高校に不合格となって、やむなく入学することになったこの女子高であったが、
来てみればいい先生方に恵まれ、友人もたくさんできて、思いのほか楽しく充実して過ごすことができている。
今度入学してくる１年生たちも、そんなふうに思えるようになったらいいなと、綾乃は願った。

むろんこの女子高での暮らしを、綾乃のように肯定的にとらえられているクラスメートばかりではない。
それに綾乃だって、悩む日もあれば、悲しい思いをしたこともあった……。

「あっ、うん、バイバイ」

部活に来ている友人とすれちがいながら、校門を出た綾乃は、春の午後の日差しの中を、駅まで歩いた。
今日はこのあと特に予定もない。
こんな日は早く帰って、家でのんびりしよう。そんなふうに思いながら、綾乃は市内電車に揺られた。

やがてターミナルで、郊外線に乗り換えた綾乃は、車両の優先座席ではないほうの端の座席を確保すると、
最初はケータイをいじっていたものの、ほどなく電車の揺れが心地よくなり、眠気に見舞われてきた。

それからまた綾乃は、まどろみに入った。
電車は引き続き適度に揺れ、背中に当たる午後の太陽もほどよくポカポカとする。
最高の車内昼寝環境だった。そのまま綾乃は、快速が２駅ほど止まったのに気づかずに過ごした。

ふと綾乃は、左側に圧迫を感じて、眠りを浅くした。
薄目を開いて確認すると、あの隣に座った女の人も、綾乃と同じように寝ていた。
綾乃は心の中で苦笑すると、とりあえずは特段の措置をとらないことにした。

そして、再び眠りを深めながら思った。

（この人の身体……気持ちいい）

電車内で隣の座席にて寝ている人からもたれかかられるというのは、原則としては迷惑なことである。
それが臭いオッサンだったりしたら最悪だ、とも綾乃は考える。

だが、このときの左隣の女性は、
なぜだろう？　腕の柔らかさが綾乃の感覚に叶っていたのだろうか、
とても心地よく感じられるのであった。

綾乃は、むしろ自分の身体を、少し左側へ傾けた。
そうして、たまたま左側に座った女性との偶然のふれあいを、夢見心地に味わうのだった。
伝わる体温がまた、格別の温かさであった。

（………………）

やがて綾乃は思い出した。以前にも、これとよく似た感触に包まれたことがあった。

（あれは……そうだ、……ミナミ先輩！）

静間南海は、綾乃が入学した年の３年生で、綾乃が当初入部した科学部の先輩として出会ったのだった。

南海は、綾乃から見て、細かいところにもよく気がつく、面倒見がよくて、優しい素敵な先輩だった。
科学のことに覚えの悪い綾乃に対し、わざわざ時間をとって、付っきりでいろいろ教えてくれることもよくあった。

実験室で並んで装置に向かいながら、科学の外のことも、よく話した。
将来の夢を語る笑顔が、綾乃にはとてもまぶしかった。

第一志望校の入試に滑って、女子高で始めた高校生活に対し、
ややもするとクサっていた綾乃が、元気を取り戻せたのは、南海のおかげだったかもしれない。

（そう……そして、ミナミ先輩と実験室で並んで座ったときが、ちょうどこんな感じだった。
とっても温かてく柔らかくて…………）

はからずも綾乃は、南海との淡い思い出を反芻することとなった。
自分が南海を大好きだったことを、綾乃はあらためて自覚させられた。

（ミナミ先輩……、ミナミさん……、会いたい、会いたいな……、会いたいよ…………）

とてもせつない気分になった。夢の中で、綾乃は泣きそうになった。

（先輩にもう会えないなんてヤだ……淋しい、淋しい、淋しいヨぉ……）

そう、たしか夏休みの直前、
なんでもないことを校則違反だと咎められた南海は、生活指導室で教師と口論した果てに、退学となったのだ。
公平に見てあれは教師の側に非があった、と当時は噂されたものだ。

かくして、南海は学校に来ることがなくなり、
ケータイ番号もいつしか変わったのだろう、綾乃から連絡を取ることはできなくなってしまった。

当時も綾乃は、コトのなりゆきに釈然とせず、悶々としていた。
さぞや悔しかったであろう南海の心の内を慮ると、胸が張り裂けそうな気がした。

そんなことも思い出して、夢の中の綾乃は涙を流した。
南海が現在はどうしているのか、とても心配になってきた。

そのとき電車に急ブレーキがかかった。運転士が操作のタイミングを誤ったらしい。
はずみで隣の女の人の身体が、綾乃から離れた。

綾乃が顔を上げると、それは綾乃が降りる駅のひとつ手前だった。
同じように眠りから覚めて頭を起こした隣の女の人は、駅名を確認するやいなや、あわてて降りていった。
この駅で、車内はかなりすいた。

白日夢から醒めた綾乃は、しばしキョトンとした。発車した電車の窓に田園風景が流れていく。

そうして綾乃は、気を取り直した。

あれから科学部には足が遠のき、今は生徒会の委員を引き受けている綾乃だが、そんな自分にできることがあるはずだった。
あのときの南海と同じ３年生になる今年、もしも新入生の中に、あの日の綾乃のような子がいたら、
こんどは今の私がしっかり優しくしてあげよう……。

ようやく電車は綾乃の降りる駅に到着した。
ホームに降り立った綾乃が、ふと見ると、通学カバンに、一片の桜の花びらが舞い下りていた。

綾乃には、それが南海からの手紙のように思えた。

　　　　　　＜終＞