…というわけで、春に合わせたわけでもないのだが、今般“事務所”が移転したのが、言ってみればこの春の私の「新生活」であろう。

なぜ引っ越したのか。理由はいくつかある。

まず家賃の問題。

以前“事務所”にしていたマンションは、まだ私が会社に勤めていたときに借りたもので、当時は私の給料が過去最高の額だった頃でもあり、数万円の家賃も、そんな月収の中からなら、さほどの苦なく支払うことができたものだ。

しかし、会社を辞め、本格的に性別を転換して生きる試みを初めて以来、収入は途絶えている。

切り崩してきた貯金も、もはや相当に減ってしまった。

そうなると、家賃の高さはやはり痛い。

その点、今度のところは、いささか都心から離れている。そのぶん家賃の相場が安いのだ。

しかも実家と同じ最寄り駅なので、行くための電車賃も不要だ。

家賃と駐車場代に定期代を合わせると、今までよりも月あたり約３万円もの節約になる。これはありがたい。

また、都心から離れたと言っても、コンビニやスーパーの数はそう変わらないし、だいいち駅前なので、まったく不便ではない。

当然ながら、電気・ガス・水道も完備している。

それでいて自然も残っていて環境は良いときているのだから、これは引っ越さないテはないと言えよう。

次に利便性の問題がある。

以前の“事務所”は、実家から30分電車に乗っていくことになる。

これは、休日に、誰にも知られずに、こっそり“女装”を楽しむには、格好のロケーションであった。

実家から遠すぎて不便ということもなく、近すぎて近所の知り合いといきなり出くわすこともない。

借りた当初は、まだ本格的に性別を転換して生きるなどとは、私自身思い至っておらず、会社の勤めも続けるつもりでいたため、この立地に問題はなかったのだ。

しかし今は違う。

社会参加を女性としておこなう機会が増え、もはやそれのほうがメインになってしまっている。

そうなると、“事務所”と実家の間の30分の「男として存在する時間」は、精神的にも物理的にも、大きな負担となってくるのが自然な流れである。

先の家賃の問題とも絡むが、今後の生計のため、女性として職を得て、何らかの仕事をしていく上でも、通勤の大きなロスとなる。

実際、２月に受けたある就職試験は、実家と同じ市内に朝９時集合だったため、朝起きていったん都心近くの“事務所”まで行き、そこで「変身」してからまた戻ってくる…のは、朝食やトイレなどの身仕度も含めると、始発電車に乗っても不可能とわかり、結局、前夜から“事務所”に泊まり込んだという体験もしている。

今後のことも考えると、やはりこの状況は改善が急がれた。

本来なら、二世帯住宅に半同居している父にもカムアウトした上で、実家も含めたトランスのフルタイム化を図るべきなのかもしれなかったが、もう高齢の父にはあえてカムアウトしないのが、むしろ親孝行なのではないかという思いも捨てきれない。

「親カムアウト」に際しては、おそらく理解を示してくれたはずの母も、他界して久しい。

そういう現状に鑑みると、実家から駅まで行った、その駅周辺というのが、現状ではベストである。

かくして、実家の最寄り駅駅前という、新しい“事務所”が設けられたのである。

最後に３つ目の理由がある。

それは、私の性別転換の進行が、そろそろ新しい段階なのではないか、新しい段階に進む・進めるべき時期に来ているのではないか、ということだった。

利便性の話の中でも触れたが、女性として過ごすことは、はじめのうちは休日の密かな楽しみでもよかった。

しかし、女性として生きることが自分にとって本当なんだと気付くにつれ、可能な限り女性として存在し行動したいと思うようになる。

仕事も女性としてしかしたくないと思うようになった。

しだいに、そのために必要な経験や実績も重ね、ついには「変身」したままで、東京まで３泊の出張に行っていろいろな用事をこなしたり、先にも述べた通り就職試験を受け、面接もこなしたりするようになった。

そうして、いつのまにか、法的にはそれが正しいはずの男としての姿のほうが、すっかり“怪しい人”になってしまった。

完全な女性になることは、永久に不可能ではあるだろう。

しかし、もはや男としての自分は、できるだけ限られた範囲にとどめたい。

したがって、毎日片道30分間、怪しいサングラスの男性として電車に乗るのもなくしたい。

むろん、“事務所”を実家の最寄り駅駅前に移すことで、父や実家の近所の人々ともはちあわせる可能性は増大した。

でも、今はそうなったらそうなったでいいとも考えるようになった。あえて危ない綱を渡るべき時なんだと思えるのだ。

そうすることで、よりいっそう、望みに近づける。

そうして、ひとりの女性として、普通に生きていきたい。

今は、その願いに、さらに一歩踏み出す、そういう時だと思われたのである。